もちゲーログ

サラリーマンの雑な日記です

ちいかわの世界とカルトは同じ。ちいかわについて考えるサラリーマン

こんにちは

 

最近、「ちいかわ」なるものにどっぷりとはまってしまった僕ですが、

巷でもかなり流行っているという話を聞きます

 

友人や職場の人間など、必ず1人くらいはちいかわファンがいます

 

かくいう私もハマってしまったわけですが(笑)

 

 

さて、今回は何となくこの「ちいかわ」流行について最近考えていたことをまとめようと思います

 

 

「みんな」やさしいちいかわの世界

ちいかわの世界ではまず、基本的に「ハチワレ」を始めとして、うさぎ、モモンガ、鎧さん、くりまんじゅう、みんな優しいです。危害を加えないし、だますこともしません。

 

自己顕示欲が強いモモンガなども、それは倫理の最低限を下回らない、ちょっとおもしろい行動をしているだけです。

普段意味不明な行動をしているウサギも、いざとなってはちいかわ達を助けてくれる心強い仲間です

 

上のような奇抜なキャラに対して、ちいかわがあまりおびえないのは、ちいかわが彼らを「知っている」からなんですね

 

いわばご近所さんであり、それほど親しくはないけど、とりあえず話したりはする仲

 

ちいかわに出てくる一見接点のないキャラも、いざとなれば助けてくれる、そんな一体感をもった「みんな」なわけです

 

「みんな」は現代にはもういない

さて、そこで僕はこう思いました。戦争直後や70年代前半といった時代の人々は、みんな「ご近所付き合い」をしていましたよね。あの人はあの仕事をしている、あの人とあの人は最近別れた、などなど。噂はすぐに広がったものです。

また、うちの子供をみていてほしい、作物のおすそ分けなどもしていましたよね。

 

つまり「みんな」という概念が明確に意識できました。

これは地元の相互扶助としての「コミュニティー」が具体的に意識できるほど、明確に存在したということですよね。

 

しかし国の発展につれて、サラリーマンが増え、コミュニティーの流動化が進んだことで、「みんな」はいなくなってしまった。つまり、世界観や背景の深い部分まで理解したコミュニティーの人間がいなくなる代わりに、それらを知らない人達が入ってきたんですよね。これはよく「コミュニティの空洞化」と呼ばれています。

 

結果として、80年代後半の「隣人訴訟」問題に代表されるように、本来「みんな」であったはずのお隣さんですら、共同体としての「みんな」ではなくなったんですよね

 

そして今は「公園で球技をするな」「マンションで挨拶をするな」「登校中の子供に声をかけるな」という非常に過敏とも思える問題が頻発しています

 

これはすべて、コミュニティーたる「みんな」が、非常に狭い範囲になってしまったことを如実に表していますよね

 

家族と友達以外はみんな敵!

世界観の共有と承認

さて、80年代後半から90年代は、ちょうどカルトブーム真っ盛りでしたよね。オウム創価学会統一教会etc...

これは人間の流動化によって、価値観を共有した「共同体」が空洞化した、自分のコミュニティーを失った寂しい人間をカルトが吸収していったからなんですよね。

 

勧誘では、上京した地方の若い女を狙えとはよく聞きました

 

つまり、人はやはり自分と同じ価値観を共有(それがカルトであれ地元であれ)した「仲間」が欲しかったんですよね。本当の意味での「みんな」です。

 

仲間意識が芽生え、自発的に助けたくなるような、「みんな」なのです。

 

また、80年代後半ではテレクラやクラブなどの出会い系ブームも終焉しましたよね。

そしてカルトがなぜか台頭してしまった

 

この現象を非常にうまく取り入れて説明している映画として「ビリーバーズ」という映画があります

 

この映画は「異性からの包括的な承認」と「神からの包括的な承認」が同じであるということを示しています。

 

「君には欠点もあるけれど、それでも僕は君を愛している」

=「君には欠点もあるけれど、それでも神は君を愛している」

 

ということです。

 

出会い系ブームによって「出会い」は増えましたが、それで出会った相手は果たして「それでも君が大好きだ」と言ってくれるのでしょうか。

承認が無ければそれはただの肉体的な接触でしかないわけです。

 

「恋愛」に対して失望をした若者たち

 

そこに目を付けたカルトが登場

 

宗教世界観を共有したコミュニティ=地域世界観を共有したコミュニティ

神による包括的な承認=異性による包括的な承認

 

当時の人間が欲していた2つの「世界観の共有」「承認」という要素を提供し、カルトがうまく取り入れて人を増やしていったわけです。

 

今ではそれがSNSによってとってかわられたのではないかという考察はまた次の記事にします

鬼滅の刃とちいかわへの憧

さて、上でカルトの構造について軽く考えましたが、これはまさに「ちいかわ」の世界にも当てはまっています

 

ちいかわとハチワレは、どうでもいいことで「えへへ」と幸せそうに「笑い合える」

いざとなれば普段変なことをしているあまり親しくないキャラも「助けてくれる」

非常に高度で、深いコンテクストでコミュニケーションしていますよね

 

完全に「世界観を共有している」わけです

 

また、ちいかわは非常にデリケートであり、草むしり検定も何度も落ちてしまう欠点がある生物です。しかし、ハチワレはそんなちいかわのことが大好きです。

 

「そんな君でも僕は大好き」なんです

 

なにがなんでも助けてあげたいし、応援してあげたいし、それはちいかわも同じなのです。

 

やはり、この2つの要素は、今を生きる現代人にとって「憧れ」なんですよね

 

さて、つい2年ほど前に「鬼滅ブーム」がありましたよね。あの作品は、見どころとしては「友情劇と成長」ですよね

 

自分がどれだけ犠牲になっても、君を助けたいんだ。守りたいんだ、というのがテーマです

 

「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか?」

弱き人を助けるためです」

 

損得を度外視した、全くの「自発的な」価値観です。

自発的に、せずにはいられない「仲間」に対する、その「自発性」に対して、我々はあこがれを抱いたんですよね

 

昨今は金のことばかりを考える連中が多いですよね。特にネットの人間ですが。

勝ち組!詐欺まがい!マルチ!

そんな時代に真反対の行動原理を示したからこそ、「鬼滅」はヒットしたのではないでしょうか。

 

 

あなたには、つい助けたくなるような世界観を共有した人間がいますか?

あなたには、スペックも何も関係なく認めてくれる人がいますか?

 

いないから我々は「ちいかわ」や「鬼滅」にあこがれるのでしょうね

 

そういえば、ちいかわは「アマプラ」で全話見れますので、非常におすすめです

「なんだ、もう、朝かと~」のedが何度も聞けます(笑)

 

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